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石橋群

 
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洗玉橋 洗玉眼鏡橋(せんぎょくめがねばし)

洗玉眼鏡橋は、明治26年(1893)5月3日、熊本県矢部町の通潤橋(国指定重要文化財)を手掛けた橋本勘五郎が最後に架けた石橋と言われている。福岡県で最大級の石造アーチ橋である。

アーチ要石には「肥後上益城矢部吹上兄弟橋、八代種山棟梁 橋本勘五郎、倅 源平、孫 為八」と刻まれており、通潤橋との構造的関係性や橋本勘五郎(当時70歳)が総監督として息子や孫と洗玉眼鏡橋を架設したことが推測できる。

建設途中で崩落事故を起こしたと記されている。橋本勘五郎の弟子に当たる萩本卯作・橋本八十松が架設の任に当たったとも記されている。 

 

昭和36年新橋(鋼橋)が架設され、洗玉眼鏡橋は解体撤去の計画であったが、地域住民の強い要望により文化財として保護されることとなった。(八女市上陽町指定重要文化財)

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寄口​橋

寄口橋は、寄口~松崎間の星野川に架設された二連アーチ式眼鏡橋で、大正9年(1920)3月に竣工した。石工棟梁は現在八女市長野の山下佐太郎氏。大工棟梁は、現在八女市上陽町北川内室園の小川弥四郎氏であった。

 

寄口橋は、橋本勘五郎氏が皇居の奥二重橋を架設したその形を、再現せんとしたものであると聞く。長さ41m、幅員4m、水面からの高さ約10mである。使用する石材は、上陽町生駒野・八女市長野から切りだして運搬さえ、長野石材組合(八女石灯篭組合の前身)の組合員達により、架設されたと伝えられている。

架設以来幾度の大洪水にもよく耐え人々の交通・生活の便を維持してきた。車社会の時代となり、橋幅も狭く通行も危険になってきたので、架設以来50年後の昭和45年(1970)に、橋の両側に一段高く歩道を設けて橋幅を拡幅した。架設以来100年を超えた。

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大瀬橋

大瀬橋は大瀬~轟の間、星野川に架設されている三連式(アーチ型)の石眼橋であり、大正6年(1917)5月3日竣工とある。これ以前には、木橋であって明治4年(1871)横山村・北川内村・長野村の三村にて架設されたと伝えられている。町では一番最初に架けられた木の橋といわれている。

 

石眼橋の長さは45.5mで町では、一番長い石橋である。幅は3.7m、径間(アーチ)は12mである。石工棟梁は、萩本卯作・川口竹次郎の両氏。この名前は、橋アーチの頂上真ん中付近に刻銘されている。

昭和50年3月、車の交通量が増加し石橋の改良工事が行われ橋の両側を拡幅した。また北川内・草野線道路改良工事が進むにつれ大瀬橋の下流に隣接し、新たにコンクリート橋が昭和53年3月に架設竣工した。

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宮ケ原橋

 宮ケ原橋は、梅ヶ谷~宮ノ原、星野川に架設されている㈣連式(アーチ型)の石眼橋であり、大正11年(1922)3月に竣工。これにより、一つ目橋から四つ目橋までをひふみよ橋の愛称で地域になじんでいる。

石眼橋の長さは46m、橋幅は3.7mである。工事費は、12,981円となっており、そのほとんどがこの地域からの寄付金で行われている。石工棟梁は、山下佐太郎氏であり、大工は、西木文蔵氏・小川弥四郎とある。ひふみよ橋4基とも肥後の種山石工の技術が受け継がれている。

平成24年(2012)の大洪水により欄干などは流出した。橋に流木などがかかり崩壊したもので、一時は取り壊しも検討されたが地域の熱望もあり、バイパスの河川をつくることで復旧することとなり、中洲は公園として住民の憩いの場となっている。

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枕 橋

枕橋は上横山藤木地区、横山川に架設されている単眼アーチ型の石眼橋であり、昭和4年(1929)に竣工とある。石眼橋の長さは22.1m、幅は3.0m、径間(アーチ)は20.5mである。石工棟梁は、萩本卯作氏。

昭和43年(1968)に車の交通量が増加したことに伴い、上部の拡幅工事を行っている。壁石も布積みの綺麗な造りのアーチ橋である。

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栗 林 橋

昭和4年11月に竣工。石工棟梁は八女市長野の山下佐太郎氏、大工棟梁は上陽町北川内の小川弥四郎氏。

 

長さ39m、幅3.7m、大輪18.9m、小輪12mとなっている。以前、大正7年3月に1連式アーチ型の石橋が架設されていたが、大正10年の大洪水で流出。その後、木橋を架設も洪水により流出した。

八女市上陽咩さるこ協会

上陽地区まちづくり協議会 

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