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高野堂

市指定史跡。
最終の行化の際、星野村にて90歳で口中より光明を発しながら遷化されたので、この地に廟所を構えたとある。
行空上人は、鎌倉時代前期の天台・真言の教理をも極めた浄土宗の僧で、美作の出身と伝えられます。
師である源空との教義上の対立などもあったらしく、 追放の身となって諸国を巡錫し、いずれの地にも二夜を重ねなかったことから、一宿上人とも称されました。
たまたま筑後に赴きし時、たちまち名声は四方にとどろいて、帰依する者が続出したと言います。中でも待宵小侍従の帰依は厚く、遂に大檀那として高野山本覚院を建立し、星野・川崎・黒木・草野四家をはじめとして、本覚院は筑後国を檀家となすゆえんとなりました。
「高野山本覚院之由来記」には、最終の行化の際、 文永年中(西曆1246~1274)に、星野村にて九十歳で口中より光明を発しながら遷化されたので、「そこに廟所を構え、その地を『黒木谷高野の上』と言う。」と記されています。
平成30年 八女市教育委員会資料より
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