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大伴部博麻

⼤伴部博⿇は、上陽咩郡(かみつやめのこおり:現在の⼋⼥地域)出⾝で、⼤化の改新(645 年)の頃、このあたりは⼋⼥県と呼ばれ、2000 ⼾以上の⼾数が存在しており、650 年には⼋⼥県が上陽咩(かみつやめ)と下陽咩(しもつやめ)の2つに分かれました。660年に百済が唐・新羅連合軍の攻撃で攻め滅ぼされ、百済の遺⾂は百済復興のため倭国に救援を要請しました。663年天智天皇の時代に、倭国・百済遺⺠の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦いが起こり、倭国からも3回に分け47,000 ⼈もの⼤群が朝鮮半島へ送り込まれました。連合軍が対峙した⽩村江の戦いで倭国・百済連合軍は⼤敗を喫し、連合軍に参加していた⼤伴部博⿇は唐軍の捕虜となり、都の⻑安に連⾏されました。ここで、倭国を攻めようと⾔う唐⼈の計画を聞いた博⿇は、わが⾝を奴隷に売って⾐粮をつくり、同僚4⼈を帰国させて、唐の計画を知らせたのです。これによって、対⾺・壱岐に防⼈(さきもり)、烽(のろし)を置き、筑紫に⽔城を築いて来襲に備えることができました。それから、約30年後の690年9⽉、筑紫国上陽咩郡⼤伴部博⿇は新羅送使⼤奈末⾦⾼訓(しらぎのおくるつかいだいなまきんこうくん)等に従って、筑紫へやっと帰国することができました(⽇本書記)。そこで、当時の持統天皇は博⿇の尊朝愛国を賞し、務⼤肆(むだいし)の位と絁5 匹(ふとぎぬいつむら)、綿10屯、布30端(ぬのみそむら)、稲千束(いねちつか)、⽔⽥4町(こなたよところ)を与えました。⽔⽥は曾孫まで伝領し三族の課役を免じました。博⿇については「上陽咩郡⼈」と記されており、上陽町名の起こりともなりました。

この博⿇の古墳と⾔われ、⽯塔⼀基存在する古塚が北川内村⻁尾⼭(北川内公園)⼭上にある。古来、鍬を⼊れることを忌む(掘ったりすると⼤災害が起こる)と⾔い伝えられている。また、筑紫国の上陽咩(かみつやめ)の郡⼈⼤伴部博⿇と⽇本書紀に記されている博⿇が、わが地⽅より出たことは、北川内村の誇りとして顕彰し後世に伝えるべく、北川内公園⼭上には「⼤伴部博⿇碑」が創⽴され、碑の前に「尊朝愛国」「売⾝輸忠」と刻した⽯柱が⽴てられている。また、帰国した後、博⿇が唐軍に対抗できる兵⼠訓練をした所といわれる「だごどう」、博⿇が⾝を清め軍袴を沈めたと云う「かまんふち」という地名も残されている。また、北川内⼩学校・北川内中学校・上陽中学校の校歌にも、⼤伴部博⿇の精神を児童⽣徒が⽬指す指標として詠み込み、北川内⼩学校では校訓として「誠・愛・勇」を掲げるなど、北川内ゆかりの偉⼈、⼋⼥の誇りとして語り継がれている。第⼆次世界⼤戦時の⽇本では、博⿇は、愛国⼼の象徴的存在として崇められ各地で宣伝された。

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⼋⼥郡北川内村⽒神の⼭上に、「往古より⼤伴部博⿇

の古墳と称せる⽯塔⼀基存在せり」と⾔われている。

上陽町北川内東公園の⼭上にある、「丘上の古塚」

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