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北汭(ほくぜい)義塾

かつて、本村の庄屋、戸長の経歴を持たれる木下甚助祐房翁は、青少年の教育に極めて関心が深く、その実績を挙げるためには、勝れた先生を得ることが大切なことであるとの考えに基づいて、当時この道に関しては、矢部・黒木を中心に郡の内外に至るまで名声の高かった江碕済先生を、格別の努力によって、北川内小学校第三代目の校長として迎えることに成功された。従って先生は、明治12 年(1879)に黒木を辞して、両親、妻子、家族6名と共に転任して来られた。因って、洗玉一の花939番地に住宅兼学舎の一棟を建設して、北汭義塾の塾札が掲げられた。江碕塾、北川内塾というのは、正式の呼称ではない。先生は、居間兼書斎を塾室として、黒木の塾生も合せ、一意専心塾生の教育に当たられた。先生の開塾のことが知れわたるや、先生の学、徳に心酔して、本村内外の向上心に燃えた有為な人々が競って塾生となり、勉学に励まれた。当時の塾生名簿によれば、塾長以下88名が記載されている。時は流れて、明治25年(1892)に黒木上の峰高等小学校長に転任されたが、塾は

未だ継続された。然るに、明治28年(1895)御原郡(現小郡市)松崎高等小学校長に任命され、同郡教育会長も兼任されることになるや、さしもの北汭義塾も、開塾以来16年間にして閉鎖されることになった。先生の教育を受けた塾生は、国家、社会のため、真に有為な人材が数多く輩出されている。北川内時代の先生は、生涯の中で最も充実した時代であり、実に偉大な教育効果を挙げられた。閉鎖後は主として、校長住宅として使用されたが、家屋は昭和44年(1969)に解体され、屋敷は上陽町町民集会場の敷地(現在、正明寺の敷地)となり、本町の教育上の、重要な遺跡、遺物は全く姿を消すに至った。

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