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ダニエル・建(ケン)・イノウエ(1924〜2012)

〜⽇本⼈の⼼を持ち続けたアメリカ⼈ナンバー3〜

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⽶国の⽇系⼈初の連邦議会議員で、⺠主党の重鎮であった。下院議員を務めた後の1963年から50年近くにわたって上院議員に在籍した。上院仮議⻑で⼤統領継承順位第3位であった。ダニエル・建ケン・イノウエ上院議員(以下ダニエル建)の先祖は⼋⼥郡横⼭村(現・⼋⼥市上陽町上横⼭)の出⾝。曾祖⽗の代1899(明治32)年に井上家を含む家屋3軒が焼失する⽕災が発⽣し、井上家はその⽕災の出⽕元とされた。被害を弁償するために、浅吉・モヨ夫妻(ダニエル建の祖⽗⺟)は3歳になる兵太郎(ダニエル建の⽗)を伴って同年出稼ぎのためにハワイへ移住した。ハワイの農園にて家族総出で働き、1922(⼤正11)年に借⾦は返済。兵太郎は⽇系⼈のかめと結婚し、1924(⼤正13)年9⽉7⽇ダニエル建はホノルルで⽣まれた。

⼩さいころから祖⽗に⻑男としての使命を決して忘れないようにと厳しく教え込まれた。また、祖⽗は⽇本の歴史と⽂化も教え、⽇本語の「義務」と「名誉」という⾔葉も教え込んだ。祖⽗はダニエル建に、故郷は福岡県⼋⼥郡横⼭村であることを⾔い聞かせていた。祖⽗の願いは、

ダニエル建を故郷に連れて帰り井上家の家督を継がせることだったが、その願いはかなわず1930(昭和5)年に亡くなった。

1941(昭和16)年12⽉8⽇、太平洋戦争勃発。アメリカにいた⽇系⼈は敵性国⺠として敵視・蔑視され、本⼟の⽇系⼈は財産を没収された上で強制収容所へと送られた。当時、ハワイ⼤学の医学⽣だったダニエル建はアメリカ軍に志願。この時も⽗は「決して国の名誉、家族の名誉を汚すな」と諭した。⽇系⼈のみで編成された第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ戦線へ。この部隊は激戦の中敢闘し、後にアメリカ史上最も多くの勲章を受けた部隊と称された。ダニエル建はドイツ軍との戦いで右腕を失うが、その働きにより数々の勲章を受章。アメリカ陸軍から英雄と讃えられた。

右腕を失ったため戦後、医学の道をあきらめハワイ⼤学で政治学を学び、政界に進出。1954(昭和29)年にはハワイ議会の議員に当選し、1959(昭和34)年8⽉には⺠主党からハワイ州選出の連邦下院議員に当選し、アメリカ初の⽇系⼈議員となった。

同年9⽉、ダニエル建は祖⽗や⽗の⻑年の願いだった故郷への訪問を果たした。祖⽗や⽗から「故郷に帰るときは決して⼀家の名を汚すようなことはしてはならない」と⾔い聞かされており、何⽇もかけて旅⾏の準備をしての帰郷であった。⽗は健康上の理由から、⼀緒に帰ることはできな

かった。

ダニエル建は当時を振り返り、次のように述べている。

「イノウエ家は⼩さな丘の上にあった。家に近づいたとき、⿊いスーツを着た男性たちと、着物を着た⼥性たちと、⼀番前に⽇本の正装姿の年⽼いた男性が家の前に⽴っているのが⾒えた。それが⼤おじだろうと思った。この⼤切な出会いにおける、私の最初の⾔葉は⽇本語で『おじさま、ただ今帰りました』だった。私は低く頭を下げ、礼をした後、家族のお墓に連れて⾏ってくれるよう、この時も⽇本語でお願いした。祖先の墓前にあいさつがしたかった。何世紀も前からの祖先への墓参りを済ませ、私は村の中⼼地へ向かい、村の⻑⽼たちにあいさつに⾏った。(途中略)

5年後、私に息⼦ができて⽗となったとき、まだ乳幼児の息⼦に、1899年7⽉に福岡県⼋⼥郡横⼭村に始まった、私たち⼀族のこの旅について⼿紙に残した。(途中略)私の級友のほとんどは⾃分たちの先祖の⽣地を覚えているし、彼らの家族の歴史について語ることができる。しかし、とても悲しいことであるが、現在の⽇系3世、4世、5世でこのような知識を持つ⼈は少ない。これはとても残念なことだ。なぜなら先祖に誇りを持つことは、健全な⾃尊⼼の⾼揚につながると信じるからだ。⾃分⾃⾝に対するプライドは、⼈格形成において⼤変重要な要素なのだ」

ダニエル建は1962(昭和37)年に上院議員となり、⽇系アメリカ⼈に対する戦時補償法の制定などに尽⼒。1973(昭和48)年にはウオーターゲート事件、1987(昭和62)年にはイラン・コントラ事件の上院調査特別委員会⻑を務めるなど活躍。また、⽇⽶関係においても重要さを訴える発⾔を続け、アメリカの⽇系社会と⽇本の交流を通じて⽇⽶関係を強化するなど⼒を注いだ。

1999(平成11)年には⻑年にわたって⽇系⼈の地位向上に寄与した功績により勲⼀等旭⽇⼤綬章を受章。翌年には⽶⼤統領から⽶軍⼈に贈られる最⾼位の名誉勲章を受章。2011(平成23)年には⽶国議会での地位を最⼤限に⽣かした連邦議会の対⽇理解促進などの功績により、⽇本政府から⾼位勲章である「桐花⼤綬章」が贈られた。

桐花⼤綬章受章のあいさつの中で「幼いころ、祖⽗から義務と名誉を⼤切にするように教えられ、

それに従って⽣きてきた」と語った。ダニエル建を上院の仮議⻑へと導いたのは、祖⽗の⾔葉。そ

して⽇系⼈としての誇りであった。

2011(平成23)年6⽉に東⽇本⼤震災の被災地を訪問。そして2012(平成24)年7⽉の九州北部豪⾬の際にも「先祖代々の故郷である福岡県での災害の映像が流れるのはつらい」とお悔やみ声明を発信した。

「アメリカ社会で活躍している⽇系⼈は⽇本と⼿を携え、今まで以上に⽇⽶の友好関係に尽くしていきたい」。⼆つの祖国が戦う悲劇を経験したダニエル建。上院最古参議員として上院仮議⻑に選出され、⼤統領継承順位第3位という⽶国史上、アジア系⽶国⼈が得た最上位の地位につき、⽶議会の重鎮として強い影響⼒を持ち⽇⽶友好の維持に⼒を尽くした。

2012(平成24)年12⽉、88歳で死去。当時のオバマ⼤統領は「真の英雄を失った」と声明を発表した。2017(平成29)年にはホノルル国際空港の正式名称が「ダニエル・K・イノウエ国際空港」となった。

2015(平成27)年10⽉22⽇⼋⼥市上陽町のホタルと⽯橋の⾥公園に、⽇⽶友好の⽊ハナミズキが30本植樹された。これは今から100年前、⽇本がアメリカへ3000本の桜の苗⽊を贈ったことを記念し、アメリカからハナミズキの苗⽊3000本が贈られたもので、ダニエル・建の祖先が上陽町出⾝であった縁でこの場所に植樹された。⽇⽶の平和と友好のシンボルであるハナミズキは⼤切に育てられ、毎年⽩い可憐な花を咲かせている。

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